- 吉野ケ里遺跡で10年ぶり発掘調査 未発掘の神社跡「謎のエリア」
弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡で知られる国の特別史跡「吉野ケ里遺跡」(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)で、10年ぶりの発掘調査が始まる。
対象となるのは、遺跡内にあった神社の跡地。
未発掘のため「謎のエリア」と呼ばれ、全国の考古学ファンの関心を集めてきた。
調査する佐賀県は「歴史的な発見が期待できる」としている。
(以下略、続きはソースでご確認ください)
毎日新聞 5/2(月) 8:30
- 神社跡って?鳥居でも埋まっていたんかよ。
- 百済系の聖遺物がでてきました!
アマテラスは百済系で決まり!
↓
全部ウソ - 殺生石が割れたと思ったらこれか
何かヤバイものが出てこなければいいけど - まあ、何がでてきても、中国の文献などをあてにしないことだな。
何かというと、中国の文献を基盤にする似非学者が多いからのう。
騎馬民族説だの、笑ってしまうよな。
また、弥生人が渡来人などということもだが、
縄文人から弥生人による顔貌の変化は、米の食変化によるトレジャー遺伝子の
変異によるものなのだが。ID: syPkLkQF.netID: Vo+I1Dk3.net
ミトコンドリアDNAの研究から
日本人はベーリング海伝いにアメリカ大陸に渡る前のアメリカ原住民に近い民族と
現在の中国南部で突然変異により発生した民族のミックスだと判明している。
それ以外も少しずつ混じってるけどね。 - 吉野ヶ里の辺りまで有明海が広がっていたから多分ここは徐福一族の上陸地点。
徐福たち高ムスビはすでに太伯の一族天孫族がいるのに気づき協力して倭国を作った。 - 当時からある種の聖地ないし礼拝所だったんじゃないかなあ。
- >>6
↓中国人の見解はこんな感じ
好太王碑 - 維基百科,自由的百科全書(Wikipedia中国語版)
(前略)
百済の国力は近肖古王の時代にピークに達した。
369年、百済は残りの馬韓をすべて併合し、洛東川の西にある伽耶を家臣とし、倭国の領土である任那を脅かした。
百済は371年に高句麗を破った後、朝鮮半島の大君主となった。その後、百済は東の新羅に侵入し始めた。
この時、新羅の国家力はまだ弱く、百済の攻勢に抵抗できず、390年までの20年間で新羅は領土のほとんどを失い、
崩壊の危機に瀕していた。そのため、南部では、任那が海を越えて倭国に助けを求めた。
390年(辛卯年)から、倭国軍は新羅を救出するために海を渡り始め、新羅の新羅守備隊を助け、
百済の攻勢に繰り返し抵抗した。392年から396年にかけて、高句麗は百済を何度も倒したが、百済は新羅に対応することができず、
倭国は新羅軍が百済占領軍を倒し、徐々に失われた土地を取り戻すのを助けた。
396年、百済の阿莘王が高句麗に降伏し、百済の権力は衰退した。
倭国は新羅を占領する機会を得て、399年までに新羅の領土全体を占領した。 - 徐福って始皇帝の時代よ,あの始皇帝陵とか石や煉瓦で万里の長城や城壁都市をつくってた。徐福船団が上陸したなら木造オンリーの吉野ケ里は貧相過ぎるであろう
- >>6
そんなものはない
紀元前10世紀に殷王朝の大臣が支配した箕子朝鮮の頃から漢族の植民地
高句麗の王族・高氏だって漢族である高陽氏の子孫を名乗っていたのが現実
新羅の前身は秦韓、支配者は漢族の蘇氏の蘇伐公ID: Bxc1gXJ+.net
国ではっきり別れてるのが時代とともに最後の民族的概念が国家として完成した証左だよな
割と日本は多民族国家、しかも分子生物学的に東アジアの中でも独立性がある
弥生人でさえバイカル組らしくて、漢民族より欧州に近いようなものでオリジナリティーがある
古墳人あたりで漢民族に近いグループが組み合わさって日本人が出来たんだよね - 本当に言ってたかは伝言ゲームみたいなものなんで判らないが、初期遼河文明の末裔も居るらしい北欧人からしてみればアジア人は歴史的に近しい存在らしいな
ヨーロッパもステップや東欧から来た民族の塗り重ねでああなってるみたいだし
引用元:https://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1651485317/l1000
分子生物学的に日本人の祖系として成り立ってる程の差なのに?
まぁなぜか国際的な分子生物学的研究に中国の影響力が強いのも警戒すべきものだろう事は確かだけど